【「プロ野球の父」正力松太郎とは?】「ビジョン・オブ・アメリカ」読売新聞、日本テレビとアメリカCIAの関係~原爆投下の広島を“親米”に変えた「原子力の父」は日本人を洗脳したのか?~



【「プロ野球の父」正力松太郎とは?】「ビジョン・オブ・アメリカ」読売新聞、日本テレビアメリカCIAの関係~原爆投下の広島を“親米”に変えた「原子力の父」は日本人を洗脳したのか?~










正力松太郎


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E




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正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日[2])は、日本の内務官僚、警察官、実業家、政治家およびCIAの協力者。




読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長、日本武道館会長等を歴任。


また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。


位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市の名誉市民であり、京成電鉄OBでもある。




読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。




日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる[3][要出典]。




東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省。


1923年(大正12)12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職[4]。




1924年2月、後藤新平の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。


意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。




当初二流紙扱いであった読売は、1941年(昭和16年)に発行部数で朝日新聞毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。


同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた[4]。




1940年(昭和15年)の開戦時は大政翼賛会総務であったために、1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[5]。




A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。




戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたるアメリカ中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している[6][7][8][9][10][11]。




また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた[12]。




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正力松太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E












■「プロ野球の父」正力松太郎氏 「原子力の父」という一面も


SAPIO 2015.09.27


https://www.news-postseven.com/archives/20150927_349294.html?DETAIL




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読売新聞中興の祖である正力松太郎A級戦犯容疑で巣鴨に収監され、釈放された時、62歳になっていたが旺盛な精力は衰えていなかった。


ノンフィクション作家・佐野眞一氏が追った。




正力は生涯大欲の人だった。


戦前の昭和9年、巨人軍の前身の大日本東京野球倶楽部をつくり、「プロ野球の父」といわれていたが、その程度で満足できる男ではなかった。




昭和26年のサンフランシスコ講和条約の締結により、公職追放が解除されると、正力は腹心の柴田秀利を使って、日本にテレビの導入を図った。


これにより正力に「テレビの父」という称号が加わった。




次に正力が目をつけたのは、原子力の平和利用だった。


ここでも活躍したのが、正力の「影武者」ともいうべき柴田だった。




柴田はまず、日本にテレビを導入するにあたって親交を結んだアメリカ人技師に手紙を送った。




返事には日米双方のために役立つことなら喜んで協力したいと記され、原子力平和利用使節団の一行として、ジェネラル・ダイナミクスのオーナーや、第二次世界大戦中はマンハッタン計画に参画し、ノーベル物理学賞を受賞したアーネスト・ローレンスら5名を派遣したいと書き添えられていた。


柴田がこの手紙をもって正力のところへ行くと、正力は喜色満面となって、こう言った。




アメリカがそこまで力を入れてくれるなら、ついでに原子炉の一つぐらい寄贈してもらえ。広島、長崎の償いと思えば安いもんじゃないか」




この鉄面皮こそ、正力の真骨頂だった。


昭和31年9月18日、茨城県東海村原子力研究所は朝からお祭り気分だった。




午後1時、式典は神官のおごそかな祝詞とともに始まった。


原子力委員会の初代委員長に就任した正力は白い布のかかったテーブルの上のスイッチをおもむろに押した。




このとき、わが国初の原子炉が臨界点に達した。


これは、正力の生涯にとっても一つの臨界点だった。




この日、正力の頭上に、「原子力の父」という新たな冠が加わった。(文中敬称略)


※SAPIO2015年10月号




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プロ野球の父」正力松太郎氏 「原子力の父」という一面も
SAPIO 2015.09.27
https://www.news-postseven.com/archives/20150927_349294.html?DETAIL
















■日本に原発を持ち込んだ正力松太郎原子力恐怖の世論を一掃する!」


ダイヤモンド 2021.8.18


https://diamond.jp/articles/-/279599




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1953年12月、米アイゼンハワー大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」についての演説を機に、唯一の被爆国である日本の原子力政策が動き始めた。


電力などの原子力の平和利用に関しては関連技術を同盟国に供与するという米国の方針に応え、わずか3カ月後の54年3月には戦後初の原子力予算が計上された。


中心にいたのは改進党(現自由民主党)で予算委員会の筆頭理事だった中曽根康弘である。




ところが、米軍によるビキニ環礁での水素爆弾実験で、第五福竜丸被爆するという事件が発生、反原子力の世論が高まる。


そこで動いたのが、当時読売新聞社社主だった正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)である。




紙面や設立間もない日本テレビ放送網でも原子力推進の論陣を張り、米国から原子力関連企業や研究者からなる「原子力平和利用使節団」を招聘して全国でイベントを行うなど、積極的にPR活動を繰り広げた。




それどころか55年2月には衆議院選に出馬。


当選を果たすと、第3次鳩山一郎内閣で初代の原子力委員長に就任する。


そして就任早々、日本に原子力発電所を5年後に建設するという構想をぶち上げるのである。




元々は警察官僚だった正力は、警務部長のとき起きた「虎ノ門事件」(摂政時代の昭和天皇が狙撃された暗殺未遂事件)の責任を取って退官。


当時は弱小紙だった読売新聞を買収して社長に就任すると、飛躍的に部数を伸ばした。




戦後は、 A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された後、公職追放となるが、不起訴で釈放されて以降は、日本へのテレビ放送の導入(『正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容』)にしても原子力発電にしても、米国の意向に大いに呼応した働きに傾いていった。




70歳の新人議員だった正力はこのとき、原子力担当大臣委員会委員長と北海道開発庁長官を兼任し、この翌月には科学技術庁の初代長官に就任予定だった。


本誌でも、原子力推進について怪気炎を上げている。




ちなみに、インタビュアーは当時のダイヤモンド社顧問、星野直樹である。


満州国の国務院総務長官として実質上の行政トップを任じ、第2次世界大戦中は東条英機首相の側近を務めた人物だ。




冒頭、正力は「広島、長崎のピカドンの思い出におびえ、ビキニの水爆実験の被害におののく日本人の気持ちが、もっと原子力を理解する方向へ向くようにしなければいけない」との思いを語っている。




確かに、戦後の日本にとって、科学技術は復興の最大のよりどころであり、実際のところ高度成長に“電気”は欠かせないファクターではあったことを考えると、原発推進に一定の理屈は通る。




しかし、それらは単なる正力個人の純粋な思いだけから発せられたものではなく、GHQ連合国軍総司令部)による占領政策の延長線上にある米国の手のひらの上での話だったと想像せざるを得ない。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)




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日本に原発を持ち込んだ正力松太郎原子力恐怖の世論を一掃する!」
ダイヤモンド 2021.8.18
https://diamond.jp/articles/-/279599
















正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容


ダイヤモンド 2020.1.8


https://diamond.jp/articles/-/225182




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“日テレ”こと「日本テレビ放送網」。


実はこの社名は、壮大な思いを込めて付けられたものだった。


その名の通り、設立当初は「日本全国をカバーするテレビ放送網」を目指していたのである。




週刊ダイヤモンド」1951年9月15日号に掲載された、読売新聞社社主で日本テレビの初代社長、正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)による「俺はテレビジョンをやる」と題された談話記事には、その熱い思いが開陳されている。




24年、正力は破綻寸前だった読売新聞社の経営権を買収し、同社の7代目社長に就任した。


部数を飛躍的に伸ばし「読売中興の祖」と呼ばれる存在となる。




終戦後、A級戦犯容疑者に指定され東京の巣鴨拘置所に収容。


釈放後も公職追放(パージ)となるが、その間に正力が野望を抱いていたのが民間テレビ放送だった。


記事でも経緯が語られているが、鮎川義介日産コンツェルン総帥を通して持ち掛けられた話だった。




51年8月6日に公職追放が解けると、正力は一気にテレビ事業の実現に動きだす。


わずか1週間後の8月13日に「日本テレビ放送網構想」(正力構想)を発表。


今回紹介する記事も、そのタイミングで掲載されたものだ。




正力構想は冒頭の通り、1社で日本全国にテレビ放送ネットワークを形成するというもので、東京を中央局として全国にマイクロ波を用いた無線中継伝送網を構築するという計画だった。


テレビ放送で使用しない周波数帯域は通信事業にも利用するという内容も含まれ、この一大計画のために米国から資金と技術援助を受ける約束も取り付けていた。




米国としても、日本におけるテレビ事業は、米国主導で行いたい思惑があった。


その点についても、記事中で正力が説明している。




「元来、アメリカが日本でテレビをやろうというのは、デモクラシーの宣伝と反共宣伝が目的である。共産党の武器は虚偽と威嚇であるが、虚偽を暴露するのは、テレビが最も有効である。迅速に多数の人に事実を示して、虚偽の宣伝を破砕してゆく」




当時米国には、世界中にまん延する共産主義を阻止するために、日本を含む世界の国々でテレビ放送ネットワークを建設し、映像メディアを活用する「ビジョン・オブ・アメリカ」という計画があった。


正力構想はまさにそれを体現するもの。


なにしろビジョン・オブ・アメリカ計画を先導するカール・ムント米上院議員が、前述した8月13日の正力構想の発表にもわざわざ同席しているくらいだ。




正力は翌52年、日本初のテレビ放送予備免許を取得して日本テレビ放送網を設立し、社長に就任した。


53年に本放送を開始し、着々と準備を進めるが、54年12月3日、正力の米国資本の導入とマイクロ波を用いたネットワーク構想は、国から却下され、その夢は頓挫することとなる。




しかしそれにしても、もし正力の描いた、対米従属的で極めて政治的かつ軍事的な、情報戦のとりでとしてのテレビ網が実現していたら、日本のテレビを巡る風景は今とはまるで違うものになっていただろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)




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正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容
ダイヤモンド 2020.1.8
https://diamond.jp/articles/-/225182












■歴史に埋もれた日本の「戦後タブー」


日刊大衆 2015.05.18


https://taishu.jp/articles/-/44310?page=1




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歴史は勝者によって書かれる――。


かの有名な歴史小説家・陳舜臣が残した言葉だが、まさに日本の戦後史は戦勝国アメリカの手によって作られたといっても過言ではない。




そこで、終戦から70年という節目を迎えた今、日本人が知らぬ間に歴史に埋もれてしまった"戦後のタブー"を明らかにしていこう。




まずは、第2次世界大戦後、連合国軍が日本占領中に設置した統治機関GHQが、決して表に出さなかった暗部をえぐる。




近代史研究家の関野通夫氏は、こう解説する。




「第2次世界大戦に敗戦した1945年から日本に主権が戻るまでの7年間、GHQは"日本は侵略戦争を行った"という意識を巧妙に日本国民に植えつけました。それも直接ではなく、メディアや政府関係者を通じ、間接的に行ったんです」




いわば、自虐史観を植え付けるための"洗脳工作"がGHQによって行われてきたと言うのだ。




関野氏は、その証拠となるGHQの内部文書『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム戦争犯罪宣伝計画)』の現物を昨年発見し、『日本人を狂わせた洗脳工作』(自由社刊)で公表した。




この指令書は、冒頭で〈日本が決して米国に報復戦争をすることのないように、戦争の贖罪意識を植え付け、民族の誇りと自尊心を奪い取る〉と明記しており、さまざまな手段で、日本人へ戦争の罪悪感を刷り込んできた。




その最たる例が、NHKが放送したラジオ番組『眞相はかうだ』だという。




元軍人と民主主義者の親友が対談する形の同番組は、満州事変から敗戦までの日本の軍国主義者の犯罪や国民への裏切り行為を暴露する内容だった。


ラジオはNHKしかない時代、毎週日曜日の20時、今でいうゴールデンタイムに続編を含め2年もの間放送されたこの番組は、当時の国民から大きな反響があった。




「ただ、脚本を書いていたのはGHQ。戦勝国側の都合の悪い部分には一切触れておらず、一方的な言い分を垂れ流すものでした。戦争は1か国では起こりません。2か国の利害が対立して、初めて勃発するもので、一方だけが悪いということは絶対にないはずです」(前出の関野氏)




その"洗脳工作"の中で、GHQが最重要と位置付けていたのが、広島、長崎への原爆の投下に関する日本国民の感情だったという。




「当時、原爆投下が残虐行為だとする声は、日本のみならず、米国内にもありました。ただ現在では、原爆投下がアメリカの残虐行為とする意見はほとんど聞かれなくなり、日本側に原因があったとの声が大多数です」(全国紙社会部記者)




そこにも、GHQの"暗躍"があったことは言うまでもない。


『WGIP』の中には、〈広島-長崎の"残虐行為"の話は"戦争犯罪"計画の見出しの下に来るように適切に考えるべきである〉と記されている。




「つまり、まともに反論することは逆効果だと悟ったGHQは、原爆投下を報道する際は、それに"日本の戦争犯罪"と大きく銘打った記事も併記するように新聞社を操作していたんです。また、その記事内ではアメリカという言葉をなるべく使わないよう指導していたんです」(関野氏)




以後、「進駐軍=いい人」の風潮が日本社会に蔓延していったのは歴史の事実。


ちなみに、いまだ米国内の学校教科書には「原爆投下は間違いではなかった」と記され、原爆投下で亡くなった人の数も半分程度の数字に改ざんされて掲載されているという――。




米国による"洗脳工作"は、GHQ撤退後も密かに続けられてきた。


それが第2のタブーである、米国による『対日心理作戦D27』だ。




「この作戦は、日本が米国陣営にとどまり、ソ連側につかないように、また、日本に米軍基地があることを問題視しないようにするため、メディアを操作するというもの」(近代史に詳しいジャーナリスト)




その手足となって動いていたのが、"プロ野球の父""テレビの父""原発の父"と呼ばれ、メディア帝国・読売グループの創設者である正力松太郎氏なのだ。




「正力氏は、アメリカの諜報機関CIAから、"ポダム""ポジャクポット"と2つのコードネームを与えられており、日本テレビの創立資金もCIAが出どころだったようです」(同)




その正力氏は、日本テレビで米国製ホームドラマ、英会話番組を流すことで、心理作戦に貢献していった。


そして、米国側にとって、正力氏の"最大の功労"とされているのが、原子力発電所の日本導入だ。




「1950年代は、第五福竜丸事件が起こり、日本国内で反米・反原子力の気運が大きく高まっていた時代でした。日本への原発売り込みを国策としていた米国はCIAを通じ、正力が持つすべてのメディアで"原子力平和利用推進キャンペーン"を張り、55年には、日比谷公園で、正力と『原子力平和利用博覧会』を共催しています」(同)




その効果がいかほどのものだったかは、現在、日本各地に乱立する原発を見ればわかるだろう。




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歴史に埋もれた日本の「戦後タブー」
日刊大衆 2015.05.18
https://taishu.jp/articles/-/44310?page=1




























■正力マイクロ波事件


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


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正力マイクロ波事件(しょうりきマイクロはじけん)、または正力事件、正力マイクロ事件、正力マイクロウェーブ事件とは、1950年(昭和25年)6月1日に電波三法が施行され、公共と民間の放送事業体が並存された日本で起きた政治事件である。




1954年(昭和29年)暮れの参議院通信委員会決議により決着したとされる。


事件名は、中心的役割を果たしたとされる正力松太郎に由来する。


マイクロ波とは極超短波の無線伝送方式による通信中継システムを指す。






・概要




アメリカの対日政策転換期(逆コース当時)、アメリカ中央情報局(CIA)が正力松太郎に対し、アメリ国務省及びアメリカ対日協議会の橋渡しを得て、合衆国輸出入銀行より1000万米ドルもの巨額の借款の斡旋を企てたことで知られる。




正力は資金で日本における多目的のマイクロ波通信網を設置するが、実際には技術面を含めて一切アメリカが主導するという筋書きである。




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正力マイクロ波事件
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■CIAの日本人スパイ「ポダム」の正体は超・大手メディアの社長だった! 原爆投下の広島を“親米”に変えた男
https://tocana.jp/2016/09/post_10956_entry.html






■正力、児玉→渡辺(ナベツネ)という米国の日本人工作員
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/11/526.html






■読売新聞、日本テレビアメリカCIAの関係
2012-10-19
https://ameblo.jp/souldenight/entry-11383628781.html






■CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎 天木直人メディアを創る(2006.2.8)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-02/060208amaki.htm






■日本メディアがCIAに操られていると言われる理由
https://note.com/sekainoyami/n/nfd92e8134251






報道の自由度「日本67位」の理由とは 国境なき記者団があげた「記者クラブ問題」、大手紙ほぼスルー
J-CASTニュース 2021年04月22日