【よく耳にする「スガモプリズン」ってなに?】巣鴨拘置所、今はサンシャイン60になっていた!~A級戦犯にもかかわらず米国から無罪放免された「岸信介」「笹川良一」「正力松太郎」「児玉誉士夫」~
■【5月30日は何の日】64年前、「巣鴨プリズン」最後の仮出所
bizble(朝日新聞) 2022.05.30
https://smbiz.asahi.com/article/14604861
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「実は10年前のきょう…」「きょうはこんな日なんですけど…」。
取引先との雑談や、プレゼンの冒頭、社内の朝礼など、日々のビジネスシーンでのちょっとした会話のきっかけになる話題の“タネ”を紹介します。
64年前の1958年5月30日、「巣鴨プリズン」に収容されていた最後のBC級戦犯18人が仮出所しました。
東京・東池袋。
現在は高層ビル「サンシャイン60」がそびえる複合施設の一帯に、かつて「巣鴨プリズン」がありました。
もとは明治時代中期に設置された巣鴨監獄で、1937年に東京拘置所となっていました。
敗戦後の1945年11月、連合国軍総司令部(GHQ)は東京拘置所を接収し、戦犯刑務所を開設しました。
6棟の監房棟が並び、A級、BC級戦犯が多い時には2000人ほど、延べ4000人以上が収容されました。
太平洋戦争の開戦時の首相だった東条英機ら60人の処刑が、ここで行われました。
1952年に日本政府に移管され、巣鴨刑務所と改称されましたが、戦犯たちの収容は続いていました。
最後の収容者18人が仮出所したのが、1958年5月30日のことでした。
その後、再び東京拘置所となり、1971年に葛飾区小菅へ移転しました。
最後の仮出所から20年後。
「巣鴨プリズン」の跡地に1978年4月、サンシャイン60が開業しました。
高さ240メートルで、当時は東洋一高いビルでした。
サンシャインシティに隣接する公園の一角に石碑があります。
表面には、「永久平和を願って」の文字が刻まれています。
巣鴨プリズンがこの地にあり、処刑がここで執行されたことを示す碑です。
処刑地だった痕跡は、サンシャインシティの開発とともに消えました。
しかし、その地にたつ石碑が、戦争による悲劇を再び繰り返さないという願いを伝えています。
(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年5月30日に公開した記事を転載しました)
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【5月30日は何の日】64年前、「巣鴨プリズン」最後の仮出所
bizble(朝日新聞) 2022.05.30
https://smbiz.asahi.com/article/14604861
■巣鴨拘置所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A3%E9%B4%A8%E6%8B%98%E7%BD%AE%E6%89%80
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巣鴨拘置所(すがもこうちじょ、英語: Sugamo Prison)は、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設である。
東京都豊島区西巣鴨(現・豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収し、使用した。
「巣鴨プリズン」「巣鴨刑務所」などと呼ばれたこともある。
極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(1948年(昭和23年)12月23日)された場所としても知られる。
・米軍管轄下の巣鴨拘置所
第二次世界大戦で日本は敗れ、連合国軍の占領下に置かれた。
東京拘置所は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の接収により「スガモプリズン」と改称され、戦争犯罪容疑者が多数収容された。
また、BC級戦犯52名が処刑された。
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巣鴨拘置所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A3%E9%B4%A8%E6%8B%98%E7%BD%AE%E6%89%80
■A級戦犯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
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A級戦犯(Aきゅうせんぱん、英語: Class-A war criminal)は、ニュルンベルク裁判と極東国際軍事裁判の被告に対する呼称。
戦犯は戦争犯罪人の略[1]。
第二次世界大戦における枢軸国のドイツの降伏後、1945年8月8日にイギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト連邦の連合国4ヵ国が調印した国際軍事裁判所憲章では、通例の戦争犯罪に加えて、平和に対する罪と人道に対する罪が新たに規定された。
国際軍事裁判所憲章では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つが英語原文でabc順になっているため、項目aの平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」[2][3]、項目b、項目cで訴追されたものをそれぞれB級戦犯、C級戦犯と呼ぶ。
日本はそのほとんどがB級戦犯であった[4]。
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A級戦犯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
■笹川良一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80
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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家、社会奉仕活動家[2]。
大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)出身。
座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。
戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。
戦後は、財団法人日本船舶振興会(1962年設立。のちの公益財団法人日本財団)会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任。のちに辞任)、全日本カレー工業協同組合[3][4]特別顧問、福岡工業大学理事長[5]を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。
第二次世界大戦後は、連合国によりA級戦犯容疑者の指定を受け、巣鴨プリズンに3年間収監された。
巣鴨プリズン出所後は、競艇として射幸心をあおる賭博ではないかとの批判もあったが、収益を公益のために寄付するためのものとして、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)を創設した。
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笹川良一
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80
■正力松太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日[2])は、日本の内務官僚、警察官、実業家、政治家およびCIAの協力者。
読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長、日本武道館会長等を歴任。
また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。
位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市の名誉市民であり、京成電鉄OBでもある。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。
日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる[3][要出典]。
・CIAの協力者としての活動
早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。
有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[39]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。
米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[22]。
アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触した[21]。
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正力松太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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■児玉誉士夫
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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年〈明治44年〉2月18日 - 1984年〈昭和59年〉1月17日)は、日本の右翼運動家。
自称CIAエージェント[1][2][3][4]。
暴力団・錦政会[注釈 1]顧問[5]。
戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。
この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供した[6]。
「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
日韓国交正常化交渉に関与した[7]。
1960年、生前葬を行う。
河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり焼香した[要出典]。
・ロッキード社の秘密代理人
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。
児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。
1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。
児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。
韓国に対する影響力の大きさが窺える。
しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をも
っていなかった[注釈 38]。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。
小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。
さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。
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児玉誉士夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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■岸信介、A級戦犯「不起訴」の謎を解き明かす
運命を決めたGHQへの「証言」
週刊現代 2016.09.11
https://gendai.media/articles/-/49675
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・拘束3年余の後、釈放された岸
炎天下にJR池袋駅前の雑踏を抜け、東へ向かった。
目印は、東方の空にそびえる超高層のサンシャイン60である。
戦争中、この辺りは空襲が激しかった。
そのため戦後しばらくは、曲がりくねった小道の両側のあちこちに大きな穴があいていたそうだ。
防空壕の跡があって、みすぼらしい小屋がいくつも並んでいたという。
そんな光景を想像しながら歩くつもりだったが、暑さで立ちくらみした。
途中何度も立ち止まり、20分ほどでやっとサンシャイン60に着き、そのわきの東池袋中央公園に入った。
そこは別天地だった。
ラクウショウというスギ科の高木が何十本も生い茂り、深い木陰を作っている。
涼しくて、まるで渓谷の底に降り立ったような気分である。
頭上から蝉時雨がひっきりなしにそそぐ。
猫が敷石の上で昼寝している。
ヒンヤリして気持ちいいのだろう。
私はベンチに腰をかけ、汗がひくのを待ちながら70年の時の流れを思った。
この公園とサンシャインシティの一帯には、かつて巣鴨プリズンがあった。
戦犯の収容施設である。
公園の北西角にあたる所には処刑場があった。
そこで処刑された戦犯は約60人。
うち東条英機らA級戦犯7人の死刑執行は、1948(昭和23)年12月23日未明にあった。
翌日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに3年余り拘束されていた岸信介は不起訴となって釈放され、米軍の車で弟の佐藤栄作(=当時の吉田内閣の官房長官)がいる永田町の官房長官官邸に送り届けられた。
官邸の玄関に立った岸は丸坊主だった。
プリズンで支給されたぼろ服にドタ靴をはき、ちょびひげを生やしていた。
そんなみすぼらしいなりのまま「弟はいるか」と言って、応対に出たお手伝いの女性を困らせた。
女性は「ちょっとお待ちください」と引っ込み、護衛を連れて戻ってきた。不審者と思ったらしい。
たまたま護衛は東条内閣時代の顔見知りで「岸先生じゃありませんか」と言った。
弟はしばらくして公務から戻ってきた。
ちょうど昼食時だったので「何か好きなものがあれば食べさせる」と言った。
岸は巣鴨で3~4回、マグロの刺身を食べたことがある。
二切れしかなかったが、実にうまかったので、弟にこう告げた。
以下は『岸信介の回想』(文藝春秋)からの引用である。
〈他日出獄した折にはマグロの刺身を腹一杯食べてみたいと思っていた、というと、大きな皿に盛ったマグロの刺身をとってくれた。ところが食べてみると、これがいっこうにうまくないんだよ(笑)。それでね、落語にあるでしょう、目黒のサンマ。こっちは巣鴨のマグロなんだ、マグロは巣鴨に限る(笑)〉
さて余談はこのくらいにして、岸の人生最大の分岐点となった出来事について考えてみよう。
GHQは、なぜ岸をA級戦犯として起訴しなかったのか。
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岸信介、A級戦犯「不起訴」の謎を解き明かす
運命を決めたGHQへの「証言」
週刊現代 2016.09.11
https://gendai.media/articles/-/49675
■「戦後70年」特別鼎談 児玉誉士夫 笹川良一 瀬島龍三 四元義隆ほか「黒幕たちの戦後史」を語りつくす 保阪正康×佐高信×森功
週刊現代 2015.01.19
https://gendai.media/articles/-/41750?imp=0
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・カネと暴力装置
保阪?戦前の右翼の系譜という意味では、笹川良一も忘れてはいけません。
山本五十六の用心棒をしたり、ムッソリーニの真似をして黒シャツ隊を作って銀座を行進したり、なかなか派手な活動をしていました。
児玉と同様に中国でかなりカネも作った。
A級戦犯の容疑で巣鴨プリズンに入りましたが、収監されていた政治家たちとつきあい、人脈を広げて、戦後の活動の基盤にしていく。
佐高?彼はカネの作り方がうまかったですね。
獄中でモーターボートに興味を持って、出所して間もなく競艇の法制化に動いている。
'62年には日本船舶振興会を創設し、競艇による収益の受け皿にしました。
とにかくカネのばらまき方がすごい。
社会奉仕活動にも手を出して、最後はノーベル平和賞まで狙っていたというんですからね。
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「戦後70年」特別鼎談 児玉誉士夫 笹川良一 瀬島龍三 四元義隆ほか「黒幕たちの戦後史」を語りつくす 保阪正康×佐高信×森功
週刊現代 2015.01.19
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