【パール判事って知っていますか?】「東京裁判」教科書に載らない“消された歴史”私たちがまだまだ知らない『パール判事の日本無罪論』



【パール判事って知っていますか?】「東京裁判」教科書に載らない“消された歴史”私たちがまだまだ知らない『パール判事の日本無罪論』~「東京裁判という茶番」GHQ、厳しい言論統制を行い「パール判決書」も発表されなかった~












■私たちがまだまだ知らない「東京裁判」とは何だったのか?


傑作映画の修復版が公開される意味


週刊現代 2019.07.18 栗原俊雄


https://gendai.media/articles/-/65850?imp=0




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東京裁判とは




東京裁判(正式名極東国際軍事裁判)は1946年5月3日から48年11月12日まで、2年半に及んだ。




判事団はアメリカ、中国(中華民国)、イギリス、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、インド、フィリピンの11ヵ国で構成された。




日本の軍人や政治家などA級戦犯28人が起訴された。


裁判中死亡した元外務大臣松岡洋右と元海軍元帥、永野修身、病気で免訴となった大川周明の3人以外、全員が有罪だった。




東条英機土肥原賢二松井石根武藤章板垣征四郎広田弘毅木村兵太郎の7人が死刑判決を受け、12月23日に絞首刑となった。


首相や外相などを歴任した広田以外、全員陸軍の軍人だった。






・紆余曲折の制作過程




裁判自体の詳細は映画に譲り、制作過程を振り返ってみよう。


映画は講談社の創立70周年プロジェクトとして制作され、1983年に公開された。


完成まで5年、紆余曲折があった。




本作で小林監督の補佐、脚本も担当した小笠原清によれば、東京裁判の映画化を最初に進めたのは小林自身であった。


まず1970年ごろ、東宝で企画が進んだ。


脚本は完成したが、膨大な制作費が見込まれたため見送られた。




折しも、米国立公文書館で、東京裁判関係の資料公開が始まった。


日本でも一部研究者らの関心を引いた。




井上勝太郎プロデューサーらが渡米、関係フィルム582本を入手した。


77年、井上らは講談社に、この資料を基にした写真集の出版を打診。


同社は、写真集ではなく映画化に関心を持ち、翌年には制作態勢を整えた。




監督は小林に依頼。「スケールの大きい、質の高い作品を」という狙いからだった。


早くから映画化を目指していた小林に話が行くのは偶然ではあったが、運命的なものを感じさせる。




この映画の大きな魅力は、圧倒的な臨場感だ。




日本の現代史を左右した為政者たちが法廷に立つ。


自分や祖国の名誉のために雄弁に語る者もいれば、ほとんど沈黙の者もいる。


そのしぐさや語り口に見る者は引き込まれる。




アメリカ人の弁護士が、裁判の少し前まで戦っていた日本人のため渾身の弁護をする。


そうした弁護士と裁判長との衝突、自分の身を守るためにウソをつく証人もいる。




被告が別の被告を非難する場面もある。


オーストラリア人のウエッブ裁判長が淡々と告げる判決「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)を聞く被告たちの表情……もろもろ、現代史の画期を映像と音声で記録した一次資料である。




素材は一級品。1年で完成させる予定だった。


しかし制作にとりかかると「予想をはるかに上回った難物」で、「順風満帆で出航した当時には予想もしなかった波乱」(小笠原)の日々だった。




まず脚本づくりが難航した。


日本の近現代史のみならず世界のそれをも描かなければ、東京裁判を理解することはできない。




フィルムをただつなげるだけでは、作品にならない。


結果として4時間37分に及ぶ作品になるのだが、それだけの長編となれば、確かな幹となるべきストーリーが求められる。




当然、フィルム以外に集めるべき関連資料は膨大になる。


さらにフィルムを含めて必要なものを選び、不必要なものをそぎ落とす歴史眼も必要だ。




小笠原の参加で脚本は完成した。


しかしフィルムの扱いにも悩まされた。オリジナルは雑音が多い。




そこから英語を聞き取って英文に起こし、和訳する。


これを日本語版の裁判速記録全10巻に照合してゆく。


膨大な労力を費やした。




記録フィルムは必ずしも好材料ではなかった。


分量は膨大だ。




しかし一般にイメージされる裁判の全編記録ではない。


小笠原は当初「米軍が湯水のようにフィルムを使って撮った、と思っていました」。




しかし実際は違った。


盛り上がりそうな場面で映像や音声が切れることがしばしばあった。




映画は日本の中国侵略から、おおむね時系列で描かれる。


裁判のフィルムだけではカバーできないのは当然だ。




戦前から戦後のニュース映画などの資料が効果的に織り込まれる。


例えば、ソ連によるシベリア抑留に言及している点だ。




映画製作当時、アカデミズムにおけるシベリア抑留研究は絶望的に立ち遅れていた。


ジャーナリズムも同様である。




本作は抑留経験者で画家の佐藤清に協力を依頼、体験を描いた絵画で抑留の様子を伝えた。


ソ連国際法違反の抑留を隠すため、写真などの持ち出しを固く禁じた。




このため、体験者が描く絵画が一次資料なのだ。


小笠原の兄が抑留経験者だった縁で、佐藤の協力を得たという。




そうした補助資料をいかにうまく使っても、ストーリーの展開上どうしても裁判のフィルムを使いたいところはある。


たとえば終盤近くのクライマックス、東条英機と米のキーナン主席検事のやり取りだ。




東条は弁護人の問いに対し、日本臣民は天皇の命令に従わないということは考えられない、という趣旨の話をした。


この発言が事実ならば、戦争を始めたこと、戦時中の日本軍による残虐行為も天皇の意志ということになる。




昭和天皇の戦争責任に通じる、重要な証言だった。


天皇免責の方針を固めていたアメリカにとって、きわめて都合の悪い内容だった。




逆に天皇の責任を問おうとしていた、ウエッブ裁判長は法廷にその発言を深く刻印すべく、「(東条の発言が)どのようなことを示唆するのか、分かりますね」と述べた。




キーナンは東条から、天皇の意志と開戦は関係がない、という趣旨の発言を引き出さなければならなくなった。


ある工作をし、法廷で成功する。


映画は二人のこうしたやりとりを克明に描く。




だが、実際にやりとりしているフィルムは見つからなかった。


東条とキーナンが映るフィルムの中から、このシーンにもっとも近い場面の映像を探し出して組み合わせた。




ナレーターの俳優・佐藤慶の語りが、重々しいシーンにいっそうの臨場感をもたらす。こうした編集の妙が随所に光る。






・「消された歴史」を再生




映画は歴史学上の価値も高い。


たとえばアメリカ人弁護士、ブレークニーによる動議である。




法廷が日本の「平和に対する罪」を挙げたことに対して、「国際法は国家が国家利益の追求のために行う戦争を非合法としたことはない」と説く。


法廷の言う「平和に対する罪」が「事後法」であることを鋭く指摘したものだ。




さらにアメリカによる広島への原爆投下に触れ、戦争は犯罪ではなく、したがって日本の指導者の戦争計画と実施を裁くことはできない、と主張した。


日本の戦争指導者が裁かれるならば、アメリカの戦争指導者も裁かれることになる、ともとれる理屈だ。




ブレークニーは原爆の非人道性自体を批判したわけではないが、この時代、無差別爆撃の象徴とも言うべき原爆に触れることは戦勝国といえどもタブーであった。


そのタブーを果敢に破り、被告弁護を展開したのだ。




しかし、この部分は、裁判速記録から削除された。歴史上「なかったこと」になりかねなかった米弁護士の発言をこの映画は再生させ、歴史に刻印した。






・裁判の問題点




東京裁判に対しては批判が多い。


まず敗戦国を戦勝国が裁くという構図自体、裁判が報復の手段と化す可能性を高めた。




少なくともそういう疑義を呈されることになった。


歴史の批判に耐えうるためには、戦争と関係ない国の裁判官を起用すべきだった。




また、被告の選定にも問題がある。


A級戦犯」とされた被告28人以外にも、法廷に立つべき人間はいた。




さらにブレークニーが指摘した「事後法」、すなわち実行の時点では適法であった行為に対して、後になって刑事責任を問う法令の問題もあった。




筆者も、東京裁判は非常に問題の多い裁判だったと思う。


ただ確認したいのは、東京裁判の不当性をどれほど指摘しても、そしてその指摘が正しかったとしても、裁かれた為政者たちに問われるべき責任がなかったことを証明することにはならない、ということだ。




第二次世界大戦では日本人だけで310万人が死んだ。


生き残った者たちも、心身に大きな傷を負った。




日本社会全体にも、現在に至るまで大きな負の影響を及ぼしている。




戦争はだれかの作為なり不作為によるものだ。


東京裁判ならずとも、責任を問われるべき為政者はたくさんいたのだ。






・デジタルでいっそうの見応え




映画東京裁判は、弁護団や一部判事らの主張などを紹介する形で、上記のような裁判の問題点を明らかにしている。




有名なパール判事が被告の全員無罪を主張したことを詳しく紹介する。


パルは裁判所は日本の行為が始めから侵略戦争であると決めつけたことを批判し、アジアにおける欧米の行為こそを「侵略」と断じた。




「全員無罪」と欧米の「侵略」だけに注目すると、大東亜戦争=正義の戦争史観の人は溜飲が下がるだろう。


しかしパルはこの時、一部で言われるような「日本無罪論」を主張したわけではない。




パルは東京裁判戦勝国の恣意的な法理を基盤にしているものであり、それによって起訴された被告は論理的に無罪である、としたのだ。


パルは被告たちやその施策が正統であった、としたわけでもない。




映画はパルが「被告たちや日本国の行動を正当化する必要はない」としたことも、しっかりと伝えている。


この映画の、特定の歴史観によることなく、歴史をしっかりと伝えようとする姿勢を象徴する場面である。




さてアメリカはこの裁判のフィルムを商品化する意図はなかっただろう。


それゆえか、小笠原によれば「(制作する米側の)スタッフの技量がばらばら。




マイクの取り方はよく聞こえる声があるが、聞こえない声もある。


画面も真っ白だったり真っ黒だったり」した。




映画化にあたり、こうした調整には膨大な時間と労力がかかった。


しかし今回のデジタルでは、はるかに容易だった。




「歴史映像や音声が鮮やかに回復された。まるで魔法のようでした。臨場感に満ちた完成品として公開されるのは、スタッフ一同の本懐です」。


小笠原はそう話している。




現代史に関心にある人にこそ、新たな魅力を得た傑作をみてほしい。




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私たちがまだまだ知らない「東京裁判」とは何だったのか?
傑作映画の修復版が公開される意味
週刊現代 2019.07.18 栗原俊雄
https://gendai.media/articles/-/65850?imp=0


















極東国際軍事裁判(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4




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極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、旧字体: 極東國際軍事裁判??、英語: The International Military Tribunal for the Far East)とは、1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、ポツダム宣言第10項を法的根拠とし[1]、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。




極東(英語: Far East)とはヨーロッパ・アメリカ及び経度から見て、最も東方を指す地政学あるいは国際政治学上の地理区分。


東京裁判(とうきょうさいばん、英語: Tokyo Trial)とも称される。




ドイツの降伏後にイギリス、フランス、アメリカ合衆国ソビエト連邦の4ヵ国が調印した国際軍事裁判所憲章に基づいてドイツでニュルンベルク裁判が実施された。


それを参照して極東国際軍事裁判所条例(英語版)が定められた。




11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。


弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった[1]。




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極東国際軍事裁判(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4


















■ラダ・ビノード・パール(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB




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ラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal, ベンガル語: ????????? ???, ヒンディー語: ????????? ???, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人




ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。




東京裁判以前のパールは主に税法専門の弁護士として活動し東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した[1]。




ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表記では『ラーダービノード・パール』となるが、パール家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望している[2]。


東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。




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ラダ・ビノード・パール(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB


















■公益財団法人「パール下中記念館」
https://www.shimonaka.or.jp/pal-memorial-hall/




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・パール博士とはどんな人物だったのか?




東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官」として知られるラーダービノード・パールは、1886年ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)の貧しい家に生まれました。


苦学してカルカッタの大学に進み、30代後半にはインドを代表する法学者となりました。




パールが専門とした古代ヒンドゥー法は、サンスクリット古典籍のなかからインドの伝統的慣習を近代社会に合わせて再編成し、ヒンドゥーの思想や知にもとづいた独自の法体系を構築するものです。


パールの考えによれば、法は「リタ」と呼ばれる宇宙の真理や原理に基礎付けられたものでなくてはなりません。


そのため彼は、時の政治状況や権力者の意思によって法がご都合主義的に操作されることに対し、いつも厳しい批判の目を向けてきました。




東京裁判の判事への就任が決まったのは1946年4月29日、60歳のときでした。


裁判のあいだパールが専念したのは、法廷に提出する意見書の執筆です。




後に「パール判決書」として知られることになるこの文書は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、勝者が敗者を一方的に裁く東京裁判のあり方を根底から批判するものでした。


このような事後法が認められれば、将来の戦勝国も自分たちの都合のよいように裁くことができるという誤った認識を国際社会に広めることになり、それは侵略戦争の拡大につながることになると考えたのです。






・パールと下中を結んだガンディーと世界連邦の理想




「パール判決書」は、多くの日本人から歓迎されました。


下中彌三郎もそのひとりです。




下中は戦前戦中の言論活動により戦後6年にわたり政治的な活動を禁じられていましたが、処分が解かれた1951年から世界連邦運動に参画していました。


そして1952年、自ら企画した広島の「世界連邦アジア大会」にパールを招待したのです。




ガンディーの思想を尊重したパールと、大正期にガンディーを理想の人と崇めていた下中はすぐに意気投合しました。


箱根の芦ノ湖畔は、そんな2人が世界情勢や日本とインドの未来についた語り合った場所です。




講演などでパールはたびたびガンディーの思想に触れ、日本がアメリカに追従し、再軍備を進めていることに警鐘を鳴らしました。


パールも下中も、アジアの連帯から新しい世界秩序と平和を模索していくべきと考えていましたが、1950年代の日本はその思いとは逆の方向へ進んでいくことになります。




その後も2度にわたり来日し、日本との関係を大切にしたパールは、真理のために妥協を許さない姿勢を最後まで貫きました。


アメリカの原爆投下や核兵器を前提とするかのような冷戦構造を批判するとともに、日本の植民地経営や個々の戦争行為に対する道徳的な責任についても深い反省を促していました。


このようなパールの思想や主張の全体像とともに「パール判決書」をしっかりと捉えなおすことは、今なお重要な意義をもっているのではないでしょうか。








・パール博士のことば






日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった。


──朝日新聞法廷記者団『東京裁判(中)』








私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンヂーであると確信する。


──パール『平和の宣言』