【“田中角栄”実は平和を願う「ハト派」だった!】「カミソリ後藤田」後藤田正晴の警告「戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる 」~田中角栄「憲法9条」を盾にベトナム戦争への派兵要請を断っていた~
■安倍政権のやり方はいかにも拙速……今の自民党に「後藤田正晴」はいないのか?
歴史家・保阪正康が「憲法改正ロードマップ」に警鐘を鳴らす
「文藝春秋」2019/11/26
https://bunshun.jp/articles/-/15800
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「デフレからの脱却、少子高齢化への挑戦、戦後外交の総決算、その先には憲法改正もある。チャレンジャーの気持ちで令和の新しい時代をつくる」
11月20日、安倍晋三首相の通算在職日数が、2887日となり、桂太郎を抜いて歴代単独1位となった。
記者団に対して、安倍首相はその感慨を述べ、続けて残る任期での憲法改正実現への意欲を冒頭のような言葉で語った。
安倍政権が掲げる「憲法改正」のロードマップ。だが、その拙速な取り組みに疑問を呈したのがノンフィクション作家の保阪正康さんだ。
発売中の「文藝春秋」12月号および「文藝春秋 電子版」でインタビューに答えた。
・後藤田正晴のような“重石”がいなくなってしまった
「安倍首相は『2020年の改正憲法施行』を、繰り返し主張しています。しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に『改正』を実現させたい。首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます」
そういった首相の姿勢を見るたびに、保阪さんはある思いにとらわれるという。
「(今の状況を見るたびに)私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。『こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな』という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら『改憲は時期尚早』と首相を窘めたのではないかと私は思うのです。ところが今の自民党には、後藤田のような『重石』はいなくなってしまったようです」
・「スケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です」
保阪氏は、「私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です」という。
「しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです」
後藤田正晴(1914年~2005年)は「護憲」の政治家としてしられる。
警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めた。
93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられた。
「旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています」と保阪さんは語る。
93年、保阪さんはそうした彼の政治的姿勢に関心を持ち、幾度も本人取材を重ね、彼の評論を書き、『後藤田正晴??異色官僚政治家の軌跡』として出版した。
・後藤田正晴はなぜ「護憲」だったのか?
保阪さんが今の憲法改正論議に決定的に欠けていると指摘する「歴史への深い考察」。
とりわけ後藤田正晴らの政治家たちがなぜ「護憲」だったのかを理解する必要があるという。
「今の憲法改正、とりわけ『9条改正』についての論議はどうでしょうか。安倍首相には全く歴史の教訓から学ぼうという姿勢が感じられません。戦後70年近く、日本人は今の憲法のもとで国づくりをしてきました。後藤田に限らず、自民党内の戦争体験世代には『護憲』という直接的な言い方はしないものの、その考えであることを時に漏らす有力者は少なくありませんでした。宏池会、三木派、松村派、そして田中派の議員が多かったと思います。自民党が改憲を党是としながらも、その動きがほとんど表面化しなかったのは、これらの議員の『抑止力』が働いていたからでしょう。さらに戦後の保守本流の政治家たちの多くも、憲法を維持する、あるいは変えようとしないという姿勢でずっとやってきました。代表格ともいえる吉田茂は、本心はともかく、言っていることは当時の社会党より護憲的でした。共産党が『自衛権否定はおかしい』と言ったら『そんなことはない』と反論したほどです。その流れを引く池田勇人も佐藤栄作も、田中角栄も内心はともかく改憲は公言しませんでした。保守本流こそ『護憲』の側にいたのです。とするならば、現在国民に改憲を訴えている安倍政権は、国民に向けてその意思を明らかにするより先に、まず後藤田に代表されるような自民党にあって護憲的立場を貫いてきた先達に、なぜ自分は改憲なのかについて説明し、新しい言葉で改憲を訴える必要があるのではないでしょうか。ところが、今の改正論は『押し付けだ』『占領憲法だ』という感情的かつ通弊的な議論が先行するだけで、まっとうな議論が何もなされていません」
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安倍政権のやり方はいかにも拙速……今の自民党に「後藤田正晴」はいないのか?
歴史家・保阪正康が「憲法改正ロードマップ」に警鐘を鳴らす
「文藝春秋」2019/11/26
https://bunshun.jp/articles/-/15800
■「憲法改正」後藤田正晴の警告が聞こえる――保阪正康が語る。
文藝春秋digital 2019年11月24日
https://bungeishunju.com/n/nae6c13835200
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・後藤田正晴の戦争観
「必ずや成し遂げていく決意だ。新しい体制で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく」
9月11日、第4次安倍改造内閣発足後初の記者会見で、安倍晋三首相は「憲法改正」への意欲をこう強調しました。
安倍首相は「2020年の改正憲法施行」を、繰り返し主張しています。
しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。
とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に「改正」を実現させたい。
首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます。
そういった首相の姿勢を見るたびに、私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。
「こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな」という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。
保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら「改憲は時期尚早」と首相を窘(たしな)めたのではないかと私は思うのです。
ところが今の自民党には、後藤田のような「重石」はいなくなってしまったようです。
私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です。
しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。
そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。
これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです。
いうまでもなく、後藤田正晴は「護憲」の政治家でした。
警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めました。
93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられました。
旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。
のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています。
平成の初めの頃、私はそうした彼の政治的姿勢に関心を持ち、その評伝を書きたいと思い、議員会館に交渉に行きました。
最初は「評伝なんて書いて欲しくない」と断られましたが、雑談の際にたまたま彼が身を置いていた戦時下の台湾司令部に話が及んだところ、私がこの司令部について詳細に知っていることに、彼は興味を持ったらしく、取材に応じることになりました。
それから1年半、月に2、3回、議員会館の部屋、自宅、個人事務所を訪ねて、話を聞き、平成5年に『後藤田正晴――異色官僚政治家の軌跡』(文藝春秋)として刊行しました。
その本に私は彼の「戦争観」についてこう書きました。
〈後藤田には後藤田なりの戦争観があった。戦争のあの愚劣さは、決してくり返してはならない、もう二度とあのような体験はしたくない、との覚悟を固めていた。後藤田と会話を交わすと、そうした覚悟がはっきりみてとれる〉
取材中、彼は「わしの眼の黒いうちは憲法改正は許さない」との信念を語り、「軍事が政治のコントロールを踏み外して暴走を続けるなら、とんでもない事態になる」と何度も口にしました。
実際、中曽根康弘内閣の官房長官時代、後藤田は内閣の軍事への傾斜を窘めるスタンスをとり、その種の発言を続けました。
後藤田は昭和14年、東京帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格し内務省に入省しています。
1年ほど身を置いたのちに徴用され、昭和15年4月、台湾歩兵第2連隊に2等兵として入隊。
その後、陸軍経理学校で学び、主計将校、そして台湾司令部に将校として身を置きました。
太平洋戦争の期間にはこの司令部に在籍していて、司令官に仕えていました。
その頃の記憶を質している時に、後藤田は、ふとこんな言葉を漏らしました。
「戦争末期になると、中国に駐屯していた部隊が台湾を経て南方に投入されていった。中国にいた部隊はどうしてあれほど荒っぽくなるのかと内心で不思議に思っていたよ」
さらにその「荒っぽさ」を後藤田は具体的に語りました。
彼によれば台湾では中国にいた部隊による暴行事件も起こったそうです。
戦争は人を狂わせる――後藤田はその想いを台湾で強くしたのではないでしょうか。
彼が護憲の立場を貫いたのには、「もうあんな戦争は二度とゴメンだ」という戦場に赴いた世代の「共通の感情」が土台にあったからと、その時実感しました。
・地方局育ちと警保局育ち
後藤田はよく「私は地方局畑育ちだから」と言いました。
彼に限らず旧内務省の出身者はよくそういう言い方をします。
私は、最初はその意味がわかりませんでしたが、次第に納得することができました。
旧内務省出身者には「地方局育ち」と「警保局育ち」がいるのです。
地方局育ちは当時のシステムでは、最終的に官選の知事になります。
つまり国民の民生全般に目を向ける官僚として育っていく。
一方、警保局育ちは特別高等警察(特高)を動かし、国民生活を治安維持という観点で見ていく。
治安維持法を基に、国民を弾圧することが主要な仕事となります。
その結果、警保局育ちは国民の思想や生活の監視、取り締まりを、すぐに口にするようになるのです。
戦後の自民党の極右グループで、「治安維持」を主張し、思想弾圧を考えたのは、大体が内務省警保局育ちの連中でした。
「自分は思想弾圧しない」という意味が「地方局畑育ち」という言葉にはある。
その“誇り”のようなものを垣間見たのが、原稿用紙1000枚近い彼の評伝を書き終えた時でした。
後藤田から「事前に読ませてほしい」と言われ、私はその胸中を描写した部分は諒解も必要だったので、見せることにしました。
しかし、それ以外の部分は見せませんでした。
後藤田は、新聞はともかく、雑誌や書籍などの自らに関わる原稿は事前にチェックしているらしく、見せてもらうのは当然と考えている節がありました。
しかし、私はその要求を「それは検閲ですよ」と言って、全面的には受け入れなかったのです。
特高の弾圧を連想させる「検閲」という言葉を聞いた時の後藤田のびっくりした様子と、すぐに「そうか」と引き下がった時の顔が忘れられません。
「俺は特高の親玉のようなことはしたくない」という意識が彼には強くあったのです。
・僕はこんなにやわな人間ではない!
この話には続きがあります。
単行本の見本が刷り上がった日の夕方、議員会館に本を届けました。
すると翌日の早朝、午前5時ごろに後藤田から電話が入ったのです。
電話口の彼は大変な激高ぶりでした。
「君、これは何だ。文学的に書きすぎている。僕はこんなにやわな人間ではない!」
そして、いくつか書き直してくれというのです。
私は「先生は取材に応じて書く側に任せた以上、どのような本になろうともそれは仕方のないことです」と、平行線のやりとりを続けました。
カミソリと呼ばれた後藤田は自らの強いイメージがこの本によって、崩れるのを恐れているように感じました。
確かに、評伝の冒頭は「寂として物音ひとつしない」という書き出しで、徳島の剣山地の描写から始まります。
ここで父の遺体を街の病院から自宅に運ぶ様子を7歳の少年がどのように見守ったか、その心情を解き明かしていました。
そういった表現を、後藤田は「文学的にすぎる」というのです。
しばらく同じようなやりとりが続いたあと、気まずい雰囲気で電話は切れ、私は後藤田との関係もこれで最後かと思いました。
その1週間後に後藤田のパーティーが開かれました。
私は出席の返事をしていたので、気が重かったものの、顔だけはだそうと思い向かいました。
ところが会場に入ると夫人が近づいてきて「保阪さん、本当にありがとう。血も涙もないと思われている後藤田を人間的に書いていただいて」と何度も頭を下げるのです。
すると、今度は後藤田本人が近づいてきて、「やあ」といつものポーズをとったのです。
まるで何事もなかったかのように。
彼は夫人の説得を受け入れたようでした。
それ以来、後藤田と私は取材の対象者という枠を超え、互いに胸襟を開いて話すようになりました。
それからは、私が特に予定もなく事務所を訪ねても、後藤田は時間を割いてくれるようになりました。
後藤田も歴史好きなところがあり、2人で歴史談義を交わしたこともありました。
そんな時によく私は彼の「本音」を聞かされました。
ある時は、苦笑しながらこう明かしたのです。
「今日、国会を歩いていると土井たか子さんら社会党の女性議員数人とすれ違ったよ。そしたら彼女たち、わしに何と言ったと思う? 『先生、我が党の委員長になってくれませんか。先生は護憲派なんだから』ってさ」
もちろん、委員長になる気はなさそうでしたが、「護憲派」と言われ、妙に嬉しい顔をしていました。
後藤田には「俺の時代には戦争はさせない。そのためにはとにかくさしあたってこの憲法を守るんだ」という強い気概がありました。
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「憲法改正」後藤田正晴の警告が聞こえる――保阪正康が語る。
文藝春秋digital 2019年11月24日
https://bungeishunju.com/n/nae6c13835200
■「『角栄ブーム』の陰にあるハト派政治家への渇望」
AERA dot. (アエラドット) 2016/05/31 田原総一朗
https://dot.asahi.com/wa/2016052700160.html?page=1
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数多くの“田中角栄本”が書店に並び、「角栄ブーム」が起きている。
ジャーナリストの田原総一朗氏は、護憲派政治家への渇望があるのではと分析する。
いま、どの書店にも田中角栄について書かれた本がやたらに目につく。
「角栄ブーム」なのである。
一つには、田中が他の政治家にない、どでかい構想力を持っていたことが見直されているのだ。
田中は、1960年代の末に『都市政策大綱』という本をまとめた。
その前文で、「都市の主人は工業や機械ではなくて、人間そのものである」とうたった。
そして「この都市政策は日本列島全体を改造して、高能率で均衡のとれた、一つの広域都市圏に発展させる」と述べていた。
日本列島を一つの広域都市圏にする。
そのためには、北海道から九州まで、どこからどこへでも日帰りで往復できなくてはならない(当時は、沖縄は返還されていなかった)。
そこで田中は、「1日生活圏」「1日経済圏」という言葉を提唱した。
当時、東京や名古屋、大阪など、太平洋側の大都市の過密と、日本海側や内陸部の過疎が深刻な問題となっていた。
そこで田中は、日本列島の大構造改革をしようとしたのだ。
田中は日本列島を一つの広域都市圏にして、さきの条件が達成できれば、第2次、第3次産業を全国に配置することができ、日本海側や内陸部の過疎化に歯止めがかかると考えたのである。
そのためには北海道から九州まで、それも太平洋側にも日本海側にも新幹線を通し、全国に高速道路を張り巡らせる。
そして、第2、第3の国際空港と各地の地方空港を建設し、北海道、本州、四国、九州の四つの島をトンネルか橋で結ぶ。
まさに現在の日本の構造を、40年以上前に構想していたのである。
また、田中は建物の高さを制限するのではなく、低さを制限して高層化を図り、容積率を高めることを提案した。
このほか、4メートルだった道路幅の最低基準を2倍に広げるなど、具体的な対策を数多く打ち出した。
田中は30本以上の法律を、いわゆる議員立法としてつくり上げているが、このような政治家は彼以前にも、以後にもいない。
もちろん、田中が首相になって、まず行ったのは日中国交正常化であり、それまでの首相たちが台湾に向けていた視野を大きく切り替えたことはあらためて記すまでもないだろう。
だが意外に知られていないのは、田中がいわゆる護憲派で、憲法改正に強く反対しており、これこそが「角福戦争」、つまり福田赳夫との対立点だったことである。
田中はノモンハン事件に一兵卒としてかり出され、あやうく生命を失いそうな体験をした。
それで、戦争というのはバカげたことで二度とやってはいけないと、私にも強い語調で語ったことがある。
若い世代のために記しておくが、自民党には判然と2本の異なる流れがあった。
田中、大平正芳、宮沢喜一、加藤紘一とつながるのは護憲のハト派であり、岸信介、福田赳夫、小泉純一郎、さらに安倍晋三へつながるのは改憲、タカ派である。
ハト派が主流の場合はタカ派が反主流派、タカ派が主流の場合はハト派が反主流派となって、その意味では自民党はいつの時代もバランスがとれていた。
ところが、小選挙区制のためもあって、いまや、タカ派の安倍主流派に対して反主流派も非主流派もいなくなってしまった。
いま田中角栄がウケるのは、少なからぬ国民がなんとかしてハト派の手がかりをつかみたいと願っているのではないか。
※週刊朝日 2016年6月3日号
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「『角栄ブーム』の陰にあるハト派政治家への渇望」
AERA dot. (アエラドット) 2016/05/31 田原総一朗
https://dot.asahi.com/wa/2016052700160.html?page=1
■元祖ダーティーなハト派・田中角栄は庶民の声を政治に反映
失われている「保守の知恵」~友好の井戸を掘った人たち(4)田中角栄
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=32
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・暮らしを大事にするハト派の田中角栄、中国との国交回復へ
田中角栄という人を私は、「嫌いになれないで困る親戚のおじさん」というように評したことがあります。
やはりお金というものを、いろいろなところにばらまいたという側面は、否定しきれないわけですけれども、ただ、そのお金ということは、ある意味、思想で統制するということではないわけです。
田中角栄という人がおもしろいなと思うのは、自民党の歴史を振り返ったときに、1949年に隣の中国が中華人民共和国、つまり、共産主義の国となるわけです。
いわゆる赤の国。
それで、反共産主義の政党である自民党では、「赤の国とは付き合うな」ということになる。
そういう中で、戦前からの政治家である松村謙三とか石橋湛山とか、あるいは実業家では高碕達之助とか、そういう人たちがいろいろ苦心して、中国との関係を結ぼうとする。
そういう流れの中で、「なんぼ赤の国でも隣のお給仕と付き合わないわけいかないんでねえか」というような形で中国との国交回復に乗り出したのが、私は田中角栄だと思うわけです。
つまり、共産主義というイデオロギーに対して反発するイデオロギー優先の政治ではなくて、経済、暮らしというものから見れば、隣の大きい家、つまり中国と付き合わないわけにはいかないではないかと。そこには、「イデオロギーより暮らしが大事だ」という、まさにハト派の考え方がある。
・ダーティーなハト派の元祖は田中角栄
私は、小泉純一郎という人が出てきたときに、政治家を判定するには、「ダーティーかクリーンか」という軸と「ハト派なのかタカ派なのか」という軸、二つを交差させて考えなければならないと言いました。
この二つの軸を交差させると、四つのタイプに分かれる。
私から見れば、一番だめなのがダーティーなタカ派です。
色々異論はあるかもしれませんけれども、これには中曽根康弘のような人が入る。