【「米圧力の歴史」日米不平等協定で半導体撃沈!】日本の半導体産業はどうしてダメになったのか?~中曽根元首相「対米全面服従」日米半導体協定が日本の衰退の始まり~

【「米圧力の歴史」日米不平等協定で半導体撃沈!】日本の半導体産業はどうしてダメになったのか?~中曽根元首相「対米全面服従」日米半導体協定が日本の衰退の始まり~
















■日本の半導体産業はどうしてダメになったのか?


ITmedia 2021年12月17日


https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/2112/17/news024.html




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その昔、日本半導体が世界の半分を占めた時期がある。


若い人からすると、「そんな時代もあったの?」となるだろうが、ビジネス向けのPCが登場し、バブル景気に入ろうかという1980年代のことだ。




しかし、そこから約40年。凋落を重ねて、今やその火も消えかかっているような状況である。


昨今、政府のテコ入れ策もあり、ここからリバイバルできるのかが問われている。


振り返ってみると凋落の過程には、3つのターニングポイントがあったように思える。




「もし」はあり得ない。が、ターニングポイントでの決断次第では日本半導体の中から、今日のIntelTSMCSamsungに匹敵する組織が現れていてもおかしくはなかった、と悔やまれるのだ。


実際には、ターニングポイントの全てで失策を繰り返した結果として今日があるのだが……。






・1980年代のターニングポイント:日米半導体摩擦




まずは日本半導体の絶頂期、1980年代を見てみよう。


この時代、強かったのは半導体だけではない。




「電子立国日本」とNHKが持ち上げていた時代であったのだ。


日本の総合電機メーカー各社は、ビジネス的にも技術的にも世界を席捲(せっけん)していた。




そして、80年代後半にはバブルがやってくる。


資金調達など「秒」だったはずだ(今では考えられないが)。規模や条件、前半か後半かでも大分違うが、この時代はざっくり数十億円から数百億円あれば立派な半導体工場ができただろう。






・運用の負のスパイラルから脱却すべくKDDIが取った施策とは




日本の半導体メーカーは、総合電機メーカーの一部門であることが多かった。


会社規模も大きく、資金調達も余裕、この時代の日本半導体がイケイケ(死語か)で突っ走ったのは、言うまでもない。




それにイチャモンをつけてきたのが、米国の半導体企業だ。


その代表を「Intel」という。今のIntelのサイズを想像してはいけない。




この時代のIntelは、最先端の半導体を開発してはいたものの、日本の総合電機産業に比べたら一桁小さい規模感だ。




大体、半導体市場全体のサイズも今からすると桁違いに小さい。


この時代、日米両政府とも、産業規模の割には「ウルサイ」業界、という程度の認識だったと思う。




しかし、そのうるささが功を奏した。時代は日米経済摩擦が問題になっていた。


米国政府は「イラついていた」のだ。




その中の象徴的な「案件」が日米半導体摩擦であった。細かい経緯は省くが、日本政府の出した答えは「米国製品をある割合買ってやれ」というものだった。




日本の半導体メーカーの多くは、コンピュータや家電その他の部門を抱えており、半導体の生産者であり、半導体の需要家でもあった。


バブルへ向かって景気はよかった。


消費する半導体のうち、20%やそこら米国製品を買ったってたいしたことがないだろ、という感じだ。




この時期、半導体の需要家へ売り込みに行くと、「国産のCPUなんか持ってきてもらっても困るんだよね」と言われたものだ。


結局、米国の半導体産業から買ってもよさそうなものは、CPUしかなかった、ということだ。




メモリなどは国産の方が価格も、信頼性も、デリバリー(供給)もよい。


それどころか、米国の半導体メーカーは、メモリから撤退を始めてもいた。




泡沫(ほうまつ)なCPUはさておき、当時、日本半導体の精鋭各社は、「TRON-CPU」を作るプロジェクトを展開していた。


国産「TRON-CPU」の上で国産の「TRON-OS」を走らせるコンピュータ、そんなものが構想されていたのだ。




今からすると夢想にも思えるかもしれないが、この時代であれば不可能ともいえなかった。


何せ電子立国日本の電子産業は世界最強、そして相手のIntelMicrosoftは、日本の総合電機産業が巨人なら小人のサイズだったのだ。




日本規格のパソコンで世界市場を席捲する、という可能性はあったと思う。


しかし、半導体摩擦の結果は「すみ分け」だった。




日本はメモリやASIC、米国はCPUという役割分担だ。


その結果、日本のどこかの会社が今のIntelの位置を占めるという機会は失われたのである。




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日本の半導体産業はどうしてダメになったのか? 今だから分かる3つのターニングポイント
ITmedia 2021年12月17日
https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/2112/17/news024.html
























■日米半導体協定


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93%E5%8D%94%E5%AE%9A




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日米半導体協定(にちべいはんどうたいきょうてい)は、1986年9月2日に半導体に関する日米貿易摩擦を解決する目的で締結された条約である。




第一次日米半導体協定(1986年~1991年)と第二次日米半導体協定(1991年~1996年)の合計10年間にわたって有効であった[1][2]。




正式名称は日本政府と米国政府との間の半導体の貿易に関する取極(英語:Arrangement between the Government of Japan and Government of the United States of America concerning Trade in Semiconductor Products)である。




この協定の締結によって、1981年には世界の半導体市場の70%のシェアを誇っていた日本の半導体産業[3]が1990年代以降に急速に国際競争力を失ったとされている[2][4]。




・概要




日米半導体協定締結の背景としては、1970年代後半から日本の対米半導体輸出が増加する中「日本脅威論」が強まっていた[5]ことに加え、1985年の半導体不況で米国メーカーの事業撤退が相次いだことが挙げられる[6]。


また、1986年の半導体の売上ランキングにおいては世界1位がNEC、2位が東芝、3位が日立製作所であった[7]。




また、米国は貿易赤字を抱える原因を「米国は競争力を持ちながら、日本市場の閉鎖性によって対日輸出が増加しない」ことが原因であるとしており[8]、スーパー301条の発動をなかば「脅し」として使う[9]ことによって、取引を進めていた。




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この協定の発効によって、1992年には日本の半導体市場における外国製のシェアが20%を超え、世界売上ランキングでもNECが失速し、米国のインテルが1位となった。




同時に世界DRAM市場では、韓国のサムスン電子が日本メーカーを抜き、シェア1位となった。


1993年には世界シェアの首位が日本から米国に移った[12]。




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日米半導体協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%8D%8A%E5%B0%8E%E4%BD%93%E5%8D%94%E5%AE%9A

















■米圧力に譲歩の歴史 繊維、鉄鋼、半導体… 為替問題への波及懸念も


産経新聞 2017/4/18


https://www.sankei.com/article/20170418-C36S4DNJQVLLDGQIIIPXDXG75Q/




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日米経済は、米国が日本の輸出削減を求め圧力をかける貿易摩擦の歴史でもあった。


摩擦は1950年代から繊維や鉄鋼で始まり、米国の貿易赤字が急拡大した80、90年代に激化し、日本は大きな譲歩を迫られ特定産業の衰退を招いた。




80年代初めに摩擦の対象となったのは自動車だ。


第2次オイルショックを機に燃費の良い日本車の対米輸出が急増。


米国内でバッシングが強まり、81年に日本側が3年間の輸出自主規制を打ち出して事態は収束した。




80年代半ばには、業績が悪化していた米半導体メーカー中心に批判が強まり、86年に日本市場での外国製品のシェアを高める「日米半導体協定」が締結された。


90年代には当時のクリントン政権が日本に市場開放を強く求めた。




農業分野でも牛肉・オレンジ交渉が77年に開始。


日本は輸入枠拡大を段階的に受け入れ、88年に輸入規制の手法を数量から関税に変える一段の自由化を飲まされた。




みずほ総合研究所の徳田秀信主任エコノミストは、今後の日米交渉について「数値目標を掲げた米国製品の輸入拡大策などを示すべきでない。米側が簡単に報復できる根拠を与えてしまう」と警鐘を鳴らす。




実際、日米半導体協定で米国は「市場の20%超を外国メーカーに開放する数値目標を日本が守っていない」と、パソコン、テレビなどへ100%の関税を課税し、日本の半導体メーカー衰退の原因となった。




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米圧力に譲歩の歴史 繊維、鉄鋼、半導体… 為替問題への波及懸念も
産経新聞 2017/4/18
https://www.sankei.com/article/20170418-C36S4DNJQVLLDGQIIIPXDXG75Q/
















■「外国製半導体のシェア20%に」秘密書簡 日米協議


朝日新聞 2018年12月19日


https://www.asahi.com/articles/ASLDB66FZLDBUTFK02J.html




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日米経済摩擦が激化した1980年代半ば、日本の半導体輸出入に関する協定とともに作られた非公開の「サイドレター(付属文書)」が、19日の外交文書公開で開示された。




秘密書簡に記された日本の輸入増に関する数字が実現せず、米国による対日経済制裁を招いた経緯も明らかになった。






・1986年の「バイ・アメリカン」 今に続く圧力の源流




外務省は今回の外交文書公開で、日米半導体協議に関し作成から30年経った86~87年の文書を開示。


秘密書簡の概要はその後に交渉関係者らが証言しているが、日本政府による全容の開示は初めてだ。




戦後日本の輸出拡大に伴う日米経済摩擦は、80年代には自動車に続き半導体をめぐって激しくなった。




両政府は86年9月、日本市場での外国系半導体の販売拡大と、日本企業によるダンピング輸出防止に関する日米半導体協定に署名。


それを補う形で「書簡の交換により記録する」として、松永信雄駐米大使とヤイター通商代表がやりとりした書簡をサイドレターとして、存在を伏せた。




サイドレターでは「外国系半導体の販売が5年で少なくとも日本市場の20%を上回るという米国半導体産業の期待を、日本政府は認識」と明記。


「この実現を日本政府は可能と考え歓迎する」とし、達成は外国や日本の業界に加え「両政府の努力による」とした。




だが、翌87年には日本市場でシェアが伸びないとして米国で業界や議会の批判が強まり、米政府が通商法301条による4月からの制裁を予告、直前に日米緊急協議が開かれた。




今回開示されたこの協議の記録によると、米側は日本の努力が足りず、サイドレターに明記された「20%」にほど遠いと主張、日本側は20%は数値目標でなく制裁は不当と訴え、決裂した。




米政府は日本製のパソコンやカラーテレビなどに高関税をかける戦後初の本格的な対日経済制裁を発動し、日本政府は関税貿易一般協定(GATT)に訴えた。




事態が緊迫する中で4月30日から開かれた日米首脳会談でも決着しなかった。


中曽根康弘首相は5兆円以上の緊急経済対策や利下げによる「内需拡大」を説明し、制裁を「(6月の)ベネチア・サミット前に撤回してもらえれば政治的に助かる」と要請。




レーガン大統領は理解を示すが、同席のヤイター代表が日本市場でのシェア拡大などの「結果次第」と撤回時期の明言を拒んだ。


中曽根氏が「今次訪米でいつかを明らかにするのは自分の使命だ」と押しても譲らなかった。




日米両政府は91年に「20%以上という米業界の期待」と「日本政府は保証しない」を併記する新協定を結び、米政府は制裁を中断。


その後の「20%」実現や米業界の復調で96年で協定は終了した。






・「日米破局、避けるため」当時の担当者




「サイドレター」は竹下内閣当時の88年に元米商務省高官が著書で指摘したが、国会では通産省幹部が当初存在を否定。


89年に三塚博通産相が「輸入促進で、半導体の目標値がサイドレターだった」と存在は認めたが、宇野宗佑外相が答弁した「国際的約束ではない」という見解を外務省は今も保っている。




今回の文書公開をふまえた取材で、当時外務省と通産省の担当課長同士だった田中均氏と渡辺修氏は、2人でサイドレターの原案を書いたと認めた。


田中氏は「シェアの約束ではなく、日本が市場を開く姿勢を米国に示すことが国益と考えた」、渡辺氏は「日米の破局を避けるための『不合意の合意』だった」と語る。




ただ、半導体大国の日米が輸出入の数値を記す文書を交わせば自由貿易体制を傷つけかねず、実際にその後の日米経済摩擦に拍車をかけた。


米側は半導体協議を「成功」とみて自動車部品などでも数値目標を迫り、日本側は「失敗を繰り返すな」と拒み続けることになった。




現在の米トランプ政権も他国市場を閉鎖的と批判している。


元外務省幹部は「サイドレターは日米で同床異夢の文書を作るべきでないという教訓だが、引き継がれているか不安だ」と語る。


中国でも「80年代の日米関係は今の中米関係と似ている」(許小年・中欧国際工商学院教授)として「教訓」への関心は強い。




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「外国製半導体のシェア20%に」秘密書簡 日米協議
朝日新聞 2018年12月19日
https://www.asahi.com/articles/ASLDB66FZLDBUTFK02J.html












■「日米不平等協定で半導体撃沈」


金融ファクシミリ新聞社:2021年11月29日 牧本次生氏(半導体産業人協会特別顧問)


https://www.fn-group.jp/2719/




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――日本の半導体産業はトランジスタから始まった…。




 牧本 半導体産業は、終戦直後の1947年にトランジスタが発明されたことから始まる。
トランジスタより前には真空管が使われていたが、トランジスタ真空管より遙かに小さく、より多くの仕事をする。
本格的にトランジスタの工業生産が始まったのは1950年代半ばからだが、日本とアメリカではその発展の仕方が随分異なっていた。
日本では、真空管を使い今の電子レンジくらいの大きさがあったラジオに代わり、トランジスタを使って弁当箱くらいの小さいラジオが思わぬ大ヒット商品となり、日本の花形輸出商品になった。
ラジオの開発に続き、白黒テレビ、カラーテレビ、VTRもトランジスタを使って真空管式より良いものができるようになり、その後ソニーウォークマンにつながっていく。
半導体を使った家電製品は日本の独壇場になり、世界を席巻した。






――米国での発展は…。




 牧本 一方、米国の半導体産業は日本と全く異なり、軍事用として発展した。
トランジスタが発明される前、米国ではミサイルやロケットに真空管が使われていたが、この制御システムは大変重いものだった。
これをトランジスタに代えることで軽くなって遠くへ飛ばせるようになった。
1958年にはトランジスタに続いてIC(集積回路)が発明された。
ICは爪の大きさほどで、トランジスタを何百個も搭載することができたので、半導体の主流はICとなって行った。
1960年には当時のケネディ大統領がアポロプロジェクトを立ち上げた。
これは月に人間を乗せたロケットを打ち上げるプロジェクトで、この有人宇宙船の制御システムとしてICが数多く搭載され、人類は無事に月に降り立った。
1960~1970年代においては、米国と日本は家電用と軍事用の違いで住み分けを行っていたため、貿易摩擦などは起こらなかった。
しかし、1970年代には米国を中心にコンピュータがICを使う主流の産業になってきた。
そして、コンピュータに搭載されるDRAMと呼ばれるメモリを1970年代の半ばころから米国に続き日本も生産し始めるようになった。






――日本の半導体産業が米国を追い抜いた…。




 牧本 DRAMについても最初は米国がリードしていた。
最初のDRAMは1Kb(キロビット)で、それが約3年ごとに4Kbになり16Kbになりと、4倍ずつ増える。
16Kbまでは米国がリードしていたが、64Kbでは日本が米国を追い抜いた。
1981年にフォーチュンという雑誌が、DRAMの分野で日本が米国を追い抜いたことを大々的に取り上げたことをきっかけに米国内で日本に対する警戒感が高まった。
半導体産業においてはその初期から米国のシェアが日本を上回っていたが、日本は最先端のDRAMの技術でリードしたため、1986年には半導体全体でも日本が米国を追い抜いた。






――米国は日本の半導体産業を目の敵にし始めた…。




 牧本 それまでトップシェアを誇っていた米国では大騒ぎになり、日本を何とか抑え込まなければならないという世論が生まれた。
米国は日本のメモリがダンピングしているのではないかという難癖を付けはじめ、米国の商務省が調査に乗り出した。
1985年には日米の政府間協議がはじまり、1986年に日米半導体協定が締結された。
この協定の主な内容は2つあり、1つは日本がDRAMのダンピングを行うことのないように日本企業は自由に価格を決めてはならず、米国政府が価格を決定するという取り決めだ。
両国の政府が一体となり、日本企業に製品のコストデータの提出を求めた。
このとりきめによって、米国や韓国のメーカーは日本のものより少し安い値段を付ければ簡単にシェアを獲得できることになる。
2つ目は、日本の半導体市場での外国メーカーのシェアを10%から20%に拡大する取り決めだ。
当時の日本には家電製品向けを中心に巨大な半導体マーケットがあったが、日本の半導体メーカーが圧倒的なシェアを保持しており、外国メーカーは10%ほどしかシェアを持っていなかったのだ。
明らかに不平等な協定だが、当時の米国と日本の国力の差では、このような理不尽な要求をされてもそれをはねのける力がなかった。




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「日米不平等協定で半導体撃沈」
金融ファクシミリ新聞社:2021年11月29日 牧本次生氏(半導体産業人協会特別顧問)
https://www.fn-group.jp/2719/
















■米国は30年前と同じ、半導体交渉当事者がみる米中対立


日経ビジネス 2020年10月23日


https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65263770R21C20A0000000/




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官民プロジェクトの成果もあり、日立製作所富士通NECなど「日の丸半導体」の中核製品だったDRAMは世界市場を席巻した。




81年には64キロビットDRAMのシェアで日本メーカーは合計70%を占め、米国の30%を大きく上回った。


米国の雑誌に「不吉な日本の半導体勝利」と題した記事が出るなど、日本脅威論が米国内に広がっていった。




「日本の半導体メーカーが不当に廉価販売している」。


85年6月、米国半導体工業会(SIA)が日本製半導体ダンピング違反として米通商代表部(USTR)に提訴した。




ここから日米政府間交渉が始まり、1年後の86年9月に締結したのが日米半導体協定だった。


(1)日本市場における外国製半導体のシェア拡大、(2)公正販売価格による日本製半導体の価格固定――。




協定で定められたこの2つの取り決めが「日本の半導体産業が弱体化する1つの引き金になった」と牧本氏は振り返る。




「85年は日米経済関係が一番緊張した時代に入った頃だった。米国が一番うるさかったのは、繊維、通信機器、自動車で、アメリカの財界が悲鳴をあげていた。日本からアメリカへの輸出過多の品目に一つ一つ手当てをしていった記憶がある」。


故・中曽根康弘元首相はインタビュー形式の著書『中曽根康弘が語る戦後日本外交』でこう触れている。






・公正販売価格でじわじわと競争力を失う




対日貿易赤字が拡大し米国企業の業績が悪化する中、高品質で低価格の「メード・イン・ジャパン」製品の勢いをどう食い止めるか。


米国が狙い撃ちしたのが「日本の技術力の象徴だった半導体、しかも強いDRAM、巨大な日本市場だった」(牧本氏)。


日本の半導体産業は世界で圧倒的な存在感があっただけに、持ちこたえられるだろうという甘い読みがあった。




その後の日本のDRAM産業は、気付かないまま競争力を失っていった。


「日本の半導体産業は米国からたたかれたイメージが強いが、内部にいるとぬるま湯のようだった。(日米半導体協定の)公正販売価格がじわじわと麻薬のように効き、開発意欲が失われていった」。


総合電機メーカーの半導体部門OBはこう証言する。




協定によって決めた最低価格以下では販売できないため固定価格になり、その価格が高く安定していたため各社のDRAM事業は「特段なにもしなくても高い利益率を得られる状況だった」(同幹部)。




他社と新製品の技術開発で競争をしようというモチベーションがなくなった日本企業は、現状維持に甘んじるようになった。


短期的にはマイナスの影響が見えづらかった日本製DRAMの価格安定は、後に韓国企業が安値で攻勢をかける要因にもなった。