【Jアラートと民放一斉電波ジャックは憲法審査会「緊急事態条項」改憲の煽り?】自民党と維新・国民民主が戦争「緊急事態条項」実現のメディア操作?~日中戦争画策する黒幕米国、民放各社は米国に乗っ取られているのか~
■コロナ禍のテレビ報道への「強烈な違和感」…あまりにも無責任ではないか?
検証しなければ、また同じことが…
週刊現代 2022.06.15 松野 大介
https://gendai.media/articles/-/96175
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・テレビ報道への違和感
たいていの方もそうだと思いますが、私は2年前(2020年)の2~3月には新型コロナにかなりの恐怖を抱いていました。
完全に引きこもり、地上波のあらゆるニュースとふだんは観ないワイドショーを1日中つけっぱなしにし、ネットで欧米のデータやニュース記事、さらに科学者・医療従事者が発信するコメントを観まくりました。
やがてテレビ報道に違和感を持ちました。理由は主に3つ。
1. 欧米のテレビではインフルエンザと比較しているのに、日本では3月頃からインフルエンザとの比較をしなくなった(医学はデータ比較で前進する学問のはずなのに)。
2. 志村けんさんをはじめ、亡くなったり感染した芸能人・著名人をセンセーショナルに報じる姿勢。
3. 第一波後の5月に『バイキング』(フジテレビ系)が「不安 人出増加 気の緩み」と人混みを捉えた映像を放送しましたが、そのうち1つが3月の映像と発覚。『モーニングショー』(テレビ朝日系)でも人混みが写った画像が別の日に撮影されたものでした。他のワイドショーでは、新型コロナの治療にあたっていた医師が、自分の映像が編集され真逆の意見として見えるように放送されたといいます。
主にこの3つから、新型コロナを収束させたり国民の生命や健康を守ろうとする報道姿勢ではなく、視聴率やテレビ関係者の利益のための“煽り報道”だと気づきました。
私が気づけたのはテレビタレントに身を置いた経験もあるでしょうが、多くの人(特にテレビがお友達で何でも信じてしまう一部の高齢者)は、恐怖におびえる日々でテレビを疑うことがなかったろうと思います。
・無責任な“言いっぱなし”
「東京は2週間後に20万人死にます」「2週間後には○○万人死にます」と、たびたび話す番組がありました。
確かにそういう解析をする専門家もいた一方で、「1000人」などと予測する科学者もいたのに、そちらは報じない。
そして2週間過ぎたら死亡数が桁違いに少なくても、決して「間違えました」とは言わず、2週間前の発言には触れないように努める。
この無責任な“言いっぱなし”が、テレビの煽り法の1つ。
煽れないデータは極力無視し、煽れるデータを採用してそれ用のパネルを用いて大々的に報じるわけです。
もう1つわかりやすい例。
営業している飲食店を隠し撮りなどで放送し、店のドアに「開けるなバカ」とかの貼紙を見つけたら「自粛警察現わる」などと放送する。
テレビそのものが自粛警察の役目をやり、自粛しない店や人に憤慨する人たちが現れたら「自粛警察が現れました!」と報じる。
「マスクしてない人がいる!」と隠し撮りして生み出した「マスク警察」も同じ。テレビは自分たちが煽って生み出したことを報じる側に転じて“自分たちは関係ない”という態度をとってきたわけです。
・また同じことが起こる…
あるワイドショー関係者の知人に対して「もっと正しいデータを見せて報じないとフェアじゃない」と私は訴えたことがあります。
その関係者からの返信は「松野さんのお考えもわかりますが、今の視聴者はリテラシーが低い。異様に低い。データを見せてもわからないんです。そこはあきらめてます」でした。
私にはいいわけにしか思えなかったし、リテラシーが低いことが正しいデータを見せない理由にはならないでしょう。
私は2年以上、ウェブマガジンにコロナ煽り報道を指摘するコラムを書いてきました(今となっては古かったり間違いもありますが、直さずにネット上に存在しています)。
しかしなぜ今回、小説を刊行したかというと、番組を作る制作側の実情を物語にしたほうが作り手側が何を考えているかがコラムより伝わると思ったからです。
「松野さんなら小説で書けるだろう」と編集者が言ってくれたのも大きい。
私は新型コロナを軽んじているわけではありません。
だが煽り報道を続けてきたテレビの無責任さを軽んじてもいけないと思います。
テレビ報道の検証がなければ、次に感染症が流行した時、または現在のウクライナ情勢で取り沙汰される日本の安全保障でも、テレビ関係者やテレビを私利私欲のために利用したい側が都合よく報道することを止められないと、私は思います。
小説はワイドショーの制作会社に非正規で入った若い女性の視点で、第1波からの2年余を時系列で描いたので、読みやすいと思います。
テレビを信じてきたり、または「テレビって変だよ」と違和感を持った人たちには、ぜひお読みいただきたい。
テレビと大学病院からにらまれた老人の専門家が、クライマックスでカメラに向かって訴える台詞は、私の思いを込めています。
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コロナ禍のテレビ報道への「強烈な違和感」…あまりにも無責任ではないか?
検証しなければ、また同じことが…
週刊現代 2022.06.15 松野 大介
https://gendai.media/articles/-/96175
■コロナのメディア報道と世論に思う「90年前と同じ無責任な過ち」との酷似
COMEMO日経 2020年8月8日 荒川和久
https://comemo.nikkei.com/n/n676b1ef7a163
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相変わらず、テレビでも新聞でもネットニュースでも毎日のように「コロナ感染者数がどうだこうだ」というネタが続いています。
個人的に違和感があったのは、先日8月6日、75年前のその日は広島に原爆が投下された日、その日の午前8時15分はまさにその時刻です。
しかし、その時間に広島の式典の放送をしていたのはNHKだけで、他の民放各局はすべて「コロナ」の話をしていました。
ほとんどのワイドショーは8時から始まるのですが、冒頭でも8時15分でも、へたすると番組内で一度も触れなかったところもあります(見逃していたらすみませんが…少なくとも8時15分までに放送していたのはNHK以外ありませんでした)。
広島で行われた式典自体もコロナの影響で参列者の数を制限するという縛りがあったようで、もしかしたら報道機関の数も制限されていたのかもしれません。
だとしても、8月6日のあの日あの時を日本人が忘れてしまっていいのでしょうか?
被爆者であろうとなかろうと広島にゆかりがあろうとなかろうとです。
こうしたテレビの放送を見て、個人的に感じたのは、メディアが大事な理性的客観性を失っているのではないかという危惧と、「これは、まさしく昭和初期のメディアと世論」とそっくりだという思いです。
こちらの記事にある通り、コロナのパンデミックが起きた時、欧米各国の首脳は「コロナとの戦争」という言葉を使用していました。
各国首脳の口をついて出てきたのはコロナとの闘いを戦争に見立てる発言だった。
トランプ米大統領はみずからを「戦時下の大統領」になぞらえた。
フランスのマクロン大統領も「戦争」と繰り返した。
・75回目の夏が来た 戦争体験の継承いかに
もうじき戦後75回目の8月がやって来る。
経験したことのないコロナ禍の夏だ。
昨今の報道、特にテレビは、平日朝のワイドショー関連では民放全局がコロナの話題ばかり流しています。
2月あたりから半年くらいずっとです。
そして、その論調にはコロナ感染拡大を煽る方向に統一されていて、客観的に見ても偏りが見られます。
最近では、厚労省が「陽性者」という言葉を使用しているにも関わらず、無症状の陽性者もすべてひっくるめて感染者という扱いをし、見ている側にも、いかにも3月時点のような「症状のある感染者が増えている」かのような誤解を与えてもいます。
どんな切羽詰まった事情があるかも知らず、夜、店を開けていたり、通勤する人たちを非難したりするコメンテーターもいて、非常に見るに耐えない。
要するに「コロナは怖い。コロナは駆逐すべき敵だ。コロナに対して国民は連帯して立ち向かわないととんでもないことになる」と各局統一で言い続けているのです、半年も。
コロナを昭和初期の中国や米国に当てはめると、まさに戦争前夜のメディアの報道と瓜二つなのです。
戦前のメディアは、政府や軍に統制されて、嫌々ながらそういう報道をさせられていたんじゃないの?メディアも被害者なんじゃないの?
そう事実誤認している人も多いと思いますが、違います。
1931年満州事変が勃発して以来、新聞各社は号外の売上が爆発的に伸び、売りを作るために自ら、戦争のスクープ合戦、速報合戦へと突き進んでいきました。
1929年からの世界恐慌のあおりを受けて、売上低迷にあえいでいた新聞社にとってはこれは天の恵みでもあったのです。
東京日日新聞(現毎日新聞)の七瀬又三郎氏の証言によれば「当時は、血みどろの号外競争をやったんだ。競って戦地に人を出した。戦争の号外を出す度に販売部数が伸びた」とある。
また、元朝日新聞記者だった武野武治氏は「戦争になれば部数は確実に伸びる。新しい読者が増える。戦争になれば、新聞にとっては経営面ではマイナスじゃないんです」と述懐しています。
戦争に夫や息子を送り出した家族が心配して新聞を買うだけではなく、不景気に沈んでいた国民にとっても、関東軍の快進撃のニュースは元気付けられるネタだったということもあります。
号外に加え、本紙でも満州事変支持、満蒙を死守せよという論調が主流になりました。
政府が「不拡大方針」を打ち出していたにも関わらずです。
よって、政府の要請でもなく、本国の軍の圧力でもなく、自ら進んで新聞は戦争拡大を打ち出していったわけです。
当初慎重論だった朝日新聞でさえ、全国的な不買運動が起きると、軍部の行動を追認する方向に社論を転換、戦争加担の方向に舵を切りました。
その後、内閣情報部と情報局によって言論統制が徹底され、1941年の国家総動員法にもとづく新聞事業令で大本営発表を報じるしかなくなりますが、それは結果論で、当初は新聞各社の自発的な行動に起因するものです。
なぜ、そうした世の中の空気が生まれたかというと、満州事変の前に起きた陸軍の中村震太郎大尉が敵情視察中に中国軍によって捕えられ惨殺された事件によります。
耳や鼻を削がれ、手足を切り落とされ、いわゆる拷問死させられたという報道によって、日本国民は同情と怒りにより「中国人は敵だ」という空気に一変しました。
そうした人の死が空気を変えた事例は、コロナにおいて志村けんさんの死が衝撃を与えたことと酷似しています。
戦争報道が中心になると、記者たちはどうしても情報源の関東軍との接触を密にするようになります。
自分たちだけのスクープを求め、軍に意向に沿うようになっていきます。
そうして、軍にとって都合のいい情報だけが国内に報道されていくことになります。
ひとつ念押ししますが、この時点では、軍はそうした行為をメディアに強要はしていません。
むしろ、メディアの方が、センセーショナルな話題に飢え、軍をけしかけたと言えるでしょう。
・これも何かに似ていませんか?
関東軍を「コロナの専門家」に変えると、まさに今の報道やワイドショーの有りようそのものです。
メディアはコロナの不安を煽り、恐怖を訴求して、国民を扇動する物語を先に作り、それの裏付け事実として専門家の口を使っています。
そのためにコロナというウイルスは極悪非道のヒールであり続けてくれないと困る。
だから「コロナはそれほど恐れる必要はない」と番組で発言した専門家がいれば、その人は二度と番組に呼ばれません。
勿論、コロナ自体を軽視するつもりはありませんが、どこのメディアも報道も判で押したような論調になっていくことは、まさに満州事変のあの時となんら変わらないという恐怖を覚えます。
「満鉄爆破は中国軍の仕業ではなく、関東軍が仕掛けた謀略だ」という事実も、新聞各社は当時の陸軍から直接聞いていました。
しかし、それらの事実を報道する新聞は一社もなく、終戦までその事実は隠ぺいされました。
国際連盟のリットン調査団による報告書で「満州国は認めない」とされると、日本中の大手新聞社が共同で世界に向けて「そんな報告書は断じて受け入れられない」という共同宣言を出します。
もう、メディアではなくまるで外務大臣のような振る舞いです。
そして、政府より先に、メディアの大政翼賛会化が実現していたわけです。
さらに、新聞各社は「そんな国連からは脱退せよ」と連日報道します。
世論もそれを支持します。
当時の高橋是清蔵相が、荒木陸軍大臣に「新聞の報道をなんとかしろ」と言って困ったと言われます。
政府や軍が統制していたどころか、政府や軍すらメディアと世論をコントロールできなくなったのです。
その後、松岡外相が国連を脱退したわけですが、松岡氏は帰国に際して「よくぞやってくれた! 」と英雄のような扱いを国民から受けます。
もう、メディアだけではなく、国民全体がそういう空気に侵されていました。
誰も異を唱える者はいなくなります。
これは、メディアが作った世論に、自分たちメディア自身もいつしか巻き込まれて行って、そもそも誰がその情報の発信者だったかという意識はどこにもなくなっていきます。
国民は「メディアが言ってるんだから」、メディアは「国民がそういう世論なのだから」と、互いに無責任な状態に陥るのです。
これこそが無意識の全体主義であり、独裁者のいない独裁国家の姿なのです。
90年前と同じ過ちを今、我々は繰り返してないでしょうか?
コロナという病気を敵としているうちはまだいいですが、昨今の状況は、いつの間にか敵はウイルスではなく、そのウイルスにかかってしまった人間に向けられています。
岩手の一人目の陽性者に対する誹謗中傷だったり、ただの無症状の陽性隔離者を「施設から脱走」などと、まるで犯罪者のように扱うようになってきたら、もうこれはいよいよおしまいな気がしています。
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コロナのメディア報道と世論に思う「90年前と同じ無責任な過ち」との酷似
COMEMO日経 2020年8月8日 荒川和久
https://comemo.nikkei.com/n/n676b1ef7a163
■マスメディアの戦争責任(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB
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マスメディアの戦争責任(マスメディアのせんそうせきにん)とは、マスメディアが国民に事実を報道することを怠ったり、対外強硬論を助長する報道を行うことで、開戦に至ったり戦争の長期化を招くことに対する責任論である。
・言論統制
戦前の日本では1909年(明治42年)5月6日に公布された新聞紙法によって新聞は検閲の対象となっており、軍や政府は記事差止命令や写真の不掲載といった措置を取ることができた。
大正時代まではこうした環境下にあっても露骨な言論統制が行われる機会は少なかったが、1931年(昭和6年)の満州事変以後、軍の政治に対する発言力が増大すると、正面から政府や軍を批判する記事の掲載が困難となっていった。
とりわけ、1937年(昭和12年)からの日中戦争の勃発とそれに続く1938年(昭和13年)の国家総動員法の制定はそれを決定づけることになった。
この点は当時唯一の放送機関であった日本放送協会においても変わるところはなかった。
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マスメディアの戦争責任(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB
■フェイクをうんだ大本営とメディア いま向き合うべき「報道責任」
朝日新聞 2021年12月2日
https://www.asahi.com/articles/ASPD13JMFPCTDIFI01L.html
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軍部に批判的だった朝日新聞はなぜ、戦争礼賛に傾いていったのか――。
戦時下の「報道責任」を検証するため、朝日新聞は2007年から08年にかけて「新聞と戦争」と題した連載を夕刊に掲載し、当時の社論の変遷や社会の姿を伝えました。
12月8日で太平洋戦争開戦から80年を迎えるにあたって、朝日新聞デジタルで改めて「新聞と戦争」の一部を配信します。
朝日新聞の元東京本社編集局長で、ジャーナリスト・作家の外岡秀俊さんに、当時、この企画を発案した狙いや、いまの時代に再読することの意義について寄稿してもらいました。
・「報道責任」を問う 外岡秀俊さん《寄稿》
毎年8月15日前後になると、メディアは一斉に戦争特集を組む。
それに比べ、太平洋戦争の「開戦の日」は、あまり注目されない。
軍人・軍属230万人、民間人80万人が亡くなり、敗戦の日が誰にも身近な共通体験だったせいだろうか。
それに比べ、開戦では極秘とされた真珠湾攻撃が、誰にも事前に知らされなかったためだろうか。
だが戦争を振り返り、「敗戦責任」を問うなら、無謀な企てに突き進んだ「開戦責任」を問うのが筋ではないだろうか。
ところが「敗戦」には責任を問うべき軍部という「顔」があるのに、誰が「開戦」責任を負うべきかは、はっきりしない。
戦時中、透徹した目で国内外の出来事を「暗黒日記」に記した清沢洌は、1944年4月末にこう書いた。
「日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当ったのだろう。おそらく数十人を出でまい」
「我国における弱味は、将来、この戦争が国民の明白な協力を得ずして、始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実戦争を欲したのであるが」
「この時代の特徴は精神主義の魔力だ。米国の物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は『自由主義』『個人主義』で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本は日本精神があって、数字では現わし得ない奇跡をなし得ると考えた。それが戦争の大きな動機だ」
清沢は別の箇所で、その正体を「空気」であり、「勢い」だと表現する。
では、その「空気」を醸成し、「勢い」を加速させた者は誰だろう。
政治家。軍部。知識人。さまざまな顔が思い浮かぶが、忘れてならないのは、彼らの声を伝えたメディアだろうと私は思う。
朝日新聞デジタルは開戦80年の今年、かつて夕刊に連載した「新聞と戦争」の一部をアーカイブ配信するという。
・【新聞と戦争・アーカイブ】社論の転換:1 満州事変
この連載を始めたきっかけは、私が東京本社編集局長だった2006年に受け取った読者からの一通の投書だった。
「私が小さな頃、祖父が口癖のように言っていたのを思い出します。朝日の論調が変わったら気をつけろ、と」
祖父の警告が、今回真っ先に配信される「社論の転換」、つまり1931年の満州事変を境に、軍部批判から戦争の翼賛に転じた朝日新聞の変貌(へんぼう)を指すことは明らかだった。
私は開戦前夜の「空気」を醸成した「報道責任」を問うべく取材班を編成し、徹底的に検証するようお願いした。
その際にお願いしたのは、たった二つだった。
一つは一切のタブーを恐れない。
二つ目は、「もし自分がその場にいたら、どうしていたのか」を常に考えてほしいということだ。
この二つは表裏の関係にある。
朝日新聞をはじめ多くのメディアは、自らの戦争責任を問うことなく戦後を歩み始めた。
「墨塗り教科書」のように、戦時に呼号した「鬼畜米英」「一億一心」を隠し、「民主主義」の看板を掲げた。
戦後、何度か機会はあったはずなのに、報道責任を徹底究明することはなかった。
先輩や上司に累が及び、ひいては自らに跳ね返るのを恐れたためだろう。
それが社内の「タブー」となっていた。
だが、この検証は当事者個人の責任を追及するために行うのではない。
穏やかな川が奔流の「勢い」になって、誰もが激流にのまれるメディア状況の全体像を示してほしい。
それが、「もし自分がその場にいたら」と自問を促す意味だった。
20人余の取材班は2007年4月から1年間にわたって243回の連載を続けた。
おそらく当時が、関係者から話を聞ける最後のタイミングだったろう。
取材は記者やカメラマンだけでなく、広告、販売、航空、旧植民地の関係者にまで及んだ。
今連載を再読して思うのは、メディアが自らの報道責任を問うことの大切さだ。